ヴォアテュレット E.R.A.からBRM | JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.10

1934 E.R.A.R2A第1世代A型。2008年の仏モンレリー・イベント。(Wiki Simon Davidson photo)

「イギリスにおいては、国家の威信を示す事業が、往々にして個人の主導により発することがある。レデイ・ハウストンの個人援助がなければ、スピットファイア戦闘機も育たなかったろう」 ─サー・アルフレッド・オーエン


ユニオンジャック旗を掲げて
サー・アルフレッド・オーエンは英国の実業家、大手自動車部品サプライヤーのルベリー・オーエン社主であり、1960〜70年代のBRM F1チームオーナーであった。

レデイ・ハウストンは富豪であり、航空機の熱烈な推進者だった。1931年の水上機(フロートをつけ、水上離着陸する)での速度競技であるシュナイダー・トロフィー参加に対して、当時の英労働党内閣航空省がとった冷淡を超えた妨害に激怒し、スーパーマリーン社に10万ポンドの資金を提供した。この年、スーパーマリーン3機以外にエントリーはなく、もちろん優勝した。ロールス-ロイスが2300HPパワーアップしたRタイプ液冷V12気筒搭載のS6Bが世界速度記録を樹立した。このS6Bがスピットファイアに発展する。レデイ・ハウストンの激情支援がなければ、英国は第二次大戦でドイツ空軍を破ることはできなかったといわれる。

サー・アルフレッドがモーターレーシングにおいてイギリスの名誉を守ったと賞賛したのがレイモンド・メイズである。メイズが率いるBRMは、1962年F1世界コンストラクターズ・タイトルと、グレアム・ヒルのドライバーズ・チャンピオンシップを勝ち取った。

私がレイモンド・メイズに最初に会ったのは、1966年に始まった3.0リッターF1のレースで、BRMはすでにH16(水平対向8気筒2段重ね)を断念し、V12に切り替えていた。

私が「写真を撮らせていただいてよろしいでしょうか」と問うと、メイズはニコッと笑い、直ぐ真顔になり、「これでよろしいですか。サンキュー」お礼を言わなければいけないのは私の方だと言った。メイズのタイアに足を載せたポーズは、期せずして、1965年1.5リッターF1最後の年に取材したU.S.グランプリの本田宗一郎社長と同じであった。

私が1962〜64年に在英していた時期、よく観戦に出かけたのがヴィンテージカー・レースであった。そこで活躍していたのが、戦前の英国製ヴォアテュレットのE.R.A.(イングリッシュ・レーシング・オートモービル頭文字)であった。メイズと盟友ピーター・バーソンのふたりが創設、設計、製作、販売したレーシングカーであった。メイズ自身はワークスドライバーでもあった。

戦後、ふたりが創設したのがBRM(ブリティッシュ・レーシング・モータース)である。サー・アルフレッド・オーエンの「イギリスに栄誉をもたらした個人」と称えた所以である。

東西古今を問わず、大レースのプラクティス、予選は過熱気味になり、チーム監督、チーフエンジニアなどに話を聞くのは容易ではない。60年代のよき時代でも、東洋の駆け出しライターなど一蹴されるのが往々だった。レイモンド・メイズは、丁重なオックスブリッジ(オックスフォード、ケンブリッジ大の英語)で話してくれ、後日、資料を探しておくと応じてくれた。頼んだのはBRMの話題の新型H16(結局不成功)で、新型V12ではなかった。さらに、ヴィンテージカー・レースで快走していたE.R.A.についてである。

改めて送った依頼状に丁重な返事が来た。彼の回顧録『スプリット・セカンド』はすでに絶版なので、全ページを感光紙コピーし、写真とともに送ってくれるとのこと!

文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHI

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