シェルビー・コブラCSX2000|史上最も崇拝される伝説的スポーツカーの起源

コブラ"CSX2000"伝説のはじまり(Photography:Pawel Litwinski and Darin Schnabel)



CSX2000が米国国民の考えを変えただけでなく、シェルビー・アメリカンの設立によってシェルビーとフォードの協力関係が生まれ、それはGT40のル・マン制覇に結びつく。フォード・アドヴァンスト・ヴィークル(FAV)が満を持して送り出したGT40は、1964年はすべてのレースで完走できないという惨憺たる結果に終わった。ところが、シェルビー・アメリカンが2台のGT40を受け取ってからわずか8週間後にはデイトナと、それに続くセブリングで優勝を遂げたのである。1966年から67年にかけて、シェルビーGT40はル・マンを含む無数の勝利を挙げる。フォードのレース活動中に勝利を挙げたのはシェルビーが担当したGT40だけだったのである。

さらにいえば、1964年初めにはフォードは新型車マスタングを"スポーツカー"に改造してくれないかとキャロルに話を持ちかけた。「ロバでサラブレッドを追い抜くことはできないと思う」と彼はリー・アイアコッカに答えたというが、フォードの副社長はそれに対して「君の考えを訊ねているわけではない」と言い放ったという。結局、わずか数カ月後にはGT350が生まれるのである。コブラ同様、この車もSCCAのタイトルを獲得したが、マスタングの開発はそこで留まることはなかった。シェルビー・マスタングは最初の二度のトランザム・シリーズを制し、それに対抗するためにGMはカマロZ28を開発することになる。もちろんシェルビーGT500マスタングも忘れてはいけない。それが60年代最速の427コブラの誕生に結びつくのである。

ラスヴェガスに向かう飛行機の中で様々な思いがよぎったが、シェルビーの聖杯とも言うべき車をなぜオークションにかけるのかという最大の疑問の答えは、シェルビー・アメリカンの共同CEOのニール・カミングスと話すまで分からなかった。

できるだけ簡潔に説明すると、1983年にキャロルは「キャロル・シェルビー・トラスト」を設立、彼のトレードマークや資産は、CSX2000を含めてそこに組み入れられた。この基金の最終的な受益者は「キャロル・シェルビー・ファウンデーション」であり、この財団は子供のための臓器移植協会と虐待された子供たちを支えるエリ・ホーム、さらにはシェルビー自動車技術学校、ガーデナのシェルビー・オートミュージアムを支援している。

カリフォルニア州法によれば、基金の管理運営者は受益者(シェルビー財団)のために、最大の利益を得る義務がある。これまで何年もの間、コレクターズ・カーの価格は上昇して来たが、この先は見通しがつかないとして、基金管理者は今が売り時と判断し、CSX2000とCSX3178(キャロル個人の427コブラ)を手放すことを決めたのだった。

亡くなる何年も前に、キャロルはRMオークションのロブ・マイヤーズに、いつかその日が来たら、RMにすべて任せると約束していたという。そういうわけで私は今、シェルビー・アメリカンにいる。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Winston Goodfellow Photography:Pawel Litwinski and Darin Schnabel

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