レストアという「老古学」。フォードGT40を忠実にレストアした名工がたどり着いた境地

1966年フォードGT40マークII A(Photography:Erik Fuller)



フォードのル・マン制覇作戦
ある年齢層のファンにとっては、低音轟くビッグブロックV8を積んだ、凄みのある黒のフォードGT40ほど情熱をかき立てる車はないだろう。「この車やその歴史について何も知らない人が見ても、"ヤバい"と思うだろう。実にキマってるよ」とは、1046の現オーナーで、レア・ドライブに徹底的なレストアを依頼したロブ・カウフマンの言葉だ。

フォードGTの物語は1963年に始まる。きっかけは、エンツォ・フェラーリとフォード・モーター・カンパニーの合併交渉だった。長い求婚期間を経てようやく祭壇にたどり着いたが、そこでフェラーリは突然、踵を返し、フォードはひとり取り残された。フォードの絶対的リーダー、ヘンリー・フォード二世は激怒した。「よかろう。あっちがその気なら、受けて立って奴を叩きつぶしてやる」と、1カ月後には、ル・マン優勝を目指す野心的なプログラムを立ち上げた。そこでフェラーリを倒そうというのだ。

フォードの本拠地ディアボーンでは、スタイリストがセクシーなボディをデザインした。GT40と呼ばれる所以は車高がわずか40インチだからだ。しかし、アメリカにはミドシップのモノコックシャシーを製造した経験のある者がいなかった。そこで、フォードV8エンジンをミドに積んだローラGTでル・マンに出場したばかりだったエリック・ブロードレイを雇って、設計と開発を一任し、フォードからも4人のエンジニアをイギリスに派遣した。また、1959年のル・マンでアストンマーティンを優勝に導いたジョン・ワイヤーをリーダーに起用した。プロジェクトチームは、ヒースロー空港近郊のスラウ商業団地に広いワークショップを構え、フォード・アドバンスド・ビークルズ社を設立し、マシンの製造にあたった。

インディーカー用のOHV 4.2リッターV8エンジンを搭載したフォードGTは、速さは申し分なかったが、信頼性に乏しかった。初年度の1964年はル・マンで3台がリタイアするなど、結果を出せずに終わる。フォードはレーシングプロジェクトをワイヤーから奪うと、南カリフォルニアのキャロル・シェルビーに委ねた。シェルビー・アメリカンがモディファイし、コブラスタイルの4.7リッターV8エンジンを搭載したフォードGTは、1965年シーズンを開幕戦のデイトナ優勝で幸先よくスタートする。

さらにフォードは、ル・マンに向けた梃子入れ策として、NASCAR用に開発した7.0リッターのビッグブロックエンジンを、マークIIと名付けられた2台のGTに搭載した。ところが、この年は6台すべてが壊れた。ヘンリー・フォード二世が喜ぶはずはなく、モータースポーツ部門を率いていたレオ・ビーブに1枚のカードを送った。そこには手書きで「You better win.(勝ったほうが身のためだぞ)」と書かれていた。

迎えた1966年、フォードはプログラムをさらに拡大。シェルビーの他に、ホフマン・ムーディーとイギリスのアラン・マン・レーシングを加えた。ル・マンには、アメリカの2チームから各3台、アラン・マン・レーシングから2台の、総勢8台のGTマークII Aをエントリーする。シェルビーの元で走るGT40 P/1046は、ドライバーのブルース・マクラーレンとクリス・エイモンに敬意を払い、出身国ニュージーランドのスポーツカラーである黒と銀にペイントされ、国の象徴である銀シダのマークも描かれた。フォードは予選で圧倒的な強さを見せたため、チーム首脳陣はレースペースを抑えることにした。しかし、ドライバーの考えは違った。

スタートでドアをきちんと閉められなかったケン・マイルズは、1周目を終えたところでピットインするが、その分を取り返そうとレコードタイムを叩き出す。2時間後には、ダン・ガーニーがそのタイムを塗り替えた。一方、マクラーレン/エイモン組は、濡れた路面にファイアストン・タイヤが足を取られていた。ファイアストンは、設立間もないマクラーレンのチームにとって最大の出資者だったが、数周後れを挽回すべく、グッドイヤーのインターミディエート・タイヤに履き替えるという苦渋の決断に踏み切る。マクラーレンは「ドアハンドルがもげる勢いで飛ばそう」とエイモンに話したという。

チームメート同士で争った末の共倒れほど、フォードにとって最悪のシナリオはない。ガーニーのマシンが日曜の朝に音を上げると、ビーブは残りのマシンにペースダウンを指示。目標タイムは予選より30秒近く遅い4分フラットと設定された。これではもうレースとはいえない。マクラーレン/エイモン組の1046とマイルズ/ハルム組の1015が、給油やタイヤ交換でピットインするたびに交互にトップを譲り合う展開となった。

日曜の午後になると、フォードは2台のデッドヒートでフィニッシュを飾ろうと決めた。ところが、マクラーレンとマイルズがすでに最終スティントに入っていた段階で、ル・マンを主催するフランス西部自動車クラブから同着優勝はあり得ないとの通達を受けた。同時にフィニッシュした場合、勝利はより長く走った車のもの。つまり、予選2番手だった1015ではなく、20m後方の4番手グリッドからスタートした1046が優勝することになるというのだ。

ついに3台のGTマークII Aが横並びでフィニッシュラインを横切った(ディック・ハッチャーソンがドライブしていた3位のGTは12周後れだった)。だが、興奮より混乱のほうが大きかった。マイルズは表彰台へ車を進めようとして途中で止められ、1046には人垣が道を空けた。マクラーレンと申し訳なさそうな表情のエイモンが、ヘンリー・フォード二世の横でシャンパンを飲み干す姿を、マイルズは苦々しく見ていた。ハルムは同じニュージーランド出身の二人を祝福したが、のちに「優勝は俺たちのものだった」と悔しさをにじませた。

原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Preston Lerner Photography:Erik Fuller 取材協力:ロブ・カウフマンとジョセフ・キャロル(www.rkmotorscharlotte.com) マーク・アリンとキャリー・アリン(www.raredrive.com)

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