ジャガーEタイプの「150mphを出したロードカー」という謳い文句を英国・有名雑誌はいかに検証したか

『Autocar』誌のロードテストから数週間後、"9600HP"は1961年ジュネーヴ・ショーから帰ってきた。グリルバーが再び装着されている点に注目。

1961年、Eタイプの登場は自動車史の流れを一変させた。これは、当時のジャガーが掲げていた「現実的な予算で買うことのできる150mphカー」という謳い文句を、『オートカー』誌がいかにして確かめたのか、それを検証するストーリーである。

ジャガーEタイプがデビューした1961年当時、その車は路上で止まるたびに人々の視線を集めた。

当時の様子を示すこんなエピソードがある。後にEタイプでル・マン24時間レースに参加したピーター・サージェントは、ロンドンの金融街であるシティで働いていた。彼曰く、「後日、オフィスを出ると、路肩に停めたEタイプは人だかりで近づくことすらできず、諦めてジントニックを一杯、呑みに行った」というのだ。

オーラの理由はふたつある。まずEタイプが車としても、それを彫刻と考えても、ずば抜けて美しいこと。もうひとつは、1961年にはロードカーとしては未知の速度域であった150mphを実現した一台だったからだ。

時速150マイルの壁
この"150マイル伝説"を作った車は、登録ナンバー"9600HP"を付けたフィクストヘッド・クーペのプロトタイプで、1960年8月に組み立てられてから開発車両として使われた。その後、2台が用意された広報車のうちの1台となった。もう1台はロードスター・ボディの"77RW"で、こちらは初期の生産車だった。1961年3月半ばの公式発表と同時に、ジャガーの広報担当者はロードテストやロードインプレッションが一般の目に触れるようにと、大御所ジャーナリストに試乗させた。ジャガーのPR責任者だったボブ・ベリーはこう証言している。

「2媒体がテストを行った。『モーター』誌が77RWを、『オートカー』誌が9600HPを試した。当時、私たちの資料では、この2誌が最も重要で、続いて『オートスポーツ』誌など、他の媒体だった」

9600HPを発表前に試すことを許された、選ばれたジャーナリスト集団の中でも、最初の名誉を与えられたのは、当時『オートカー』誌の編集者で『フライト』誌も兼任していたベテランのモーリス・A・スミスだった。実際のところ彼は空軍中佐として飛行勲功章など数々の栄誉を受けた空の英雄であった。

「モーリスはパイロットだっただけでなく、戦時中は爆撃隊の指揮官で、ドレスデン爆撃の指揮を執っていたのです」と、彼の秘書を当時勤めていたエリザベス・ハッシーは述べている。飛行機乗りに委ねられたEタイプにとって初のロードテストは2月16、17両日に行われ、3月24日号の誌面にそのレポートが掲載された。モーリス・スミスは1987年に亡くなっているが、その前年、私は彼にインタビューを行っていた。

「Eタイプが150mphを出したという原稿も広告もできていたから、まず話題にすべき内容は、ずばり最高速だった。テストのために選ばれたテスト車両は丹念にパーツを外された左ハンドルのクーペで、シャシー・ナンバーは"8850002"。もっとも"選ばれた"という言葉は正しくないかもしれない。そのジャガーはそれ以前から開発ベース車に使っていて、おそらく当時は唯一のクーペだったからだ。登録ナンバーの9600HPは違法だったが、ノーズ上にペイントで記した。空気抵抗を抑えられ、ナンバープレートを付けるより、2から3mphを稼げたからだ」

ジャガーはフロントバンパーやグリル中央を走るバーオーナメントを取り去ったが、これらは最高速を1mphでも増すための努力だった。

「150mphに到達するため、3.8リッター・エンジンもテストベンチ上で作業した末に、魔法で呼び出されたものさ。エンジンは何度も下ろされ、積み込まれていた。当時、私たちは発表された諸元値に沿って書くのが任務だったから本当のところはわからない。基本的にはXK150S( 265hp/5500rpm)に搭載されたものと同じエンジンだった」

当時の結論から判断して、私たちはこの3.8リッターエンジンの高出力仕様は40hpほど向上していたのではないかと考えた。

「テストを担当した同僚のピーター・リヴァイアと私の二人には、6000rpmを超えないように指示が出ていた。逆に、私たちがジャーナリスト/テスターとして殉職する恐れからか、たとえ150mphが出たとしても、特に持ち上げて書いてくれる必要はないといわれたよ」

ジャガーのチーフテスターだったノーマン・デウィスは、標準装着のダンロップ・ロードスピード・タイヤ(RS5s)では高速走行の負荷に耐えられない可能性があると指摘し、レーシングタイヤ(R5s)に交換するように指示し、ダンロップは適正空気圧を40psiに指定した。さらに、高速でテールゲートが開かないように加工するなど、最後まで調整を行ったことで、『オートカー』編集部で待つスミスの元には、約束の時間には9600HPは届かなかった。

「だから一度、家に帰って睡眠を取った方がいいと思ったんだ。荷物とテスト用の装備は用意済みだし、原稿は予定通りだ。予約した飛行機の時間に間に合わないので、10時55分から11時 30分発にフライトの変更を伝えた。すると5時頃、赤い目をした二人がEタイプを家に届けてくれた。こうして私はボブ・ベリーとノーマン・デウィスと一緒に、霧と曇り空の白む頃に、卵とベーコンの朝食を摂ったのさ」

スミスは相棒のテスターであるリヴァイアと、アントワープで合流する予定だった。「当時、有名だったスーパープレミアム燃料(100オクタン)を入れるため、アントワープ港に行った。そこにはオクタン価の高い特別な燃料の供給があったんだ」


Eタイプの発表後、ジュネーヴのパルク・デ・ゾービーブにて。

編集翻訳:南陽 一浩 Transcreation : Kazuhiro NANYO Words : Philip Porter

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