アメリカの「歴史遺産」という栄誉を得たシェルビー・コブラ・デイトナの数奇な運命

シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ(Photography: Michael Furman)

AC生まれのコブラがアメリカ人の手でどう生まれ変わり、どのような経緯を辿って国際的な栄誉を獲得するに至ったか。これは、ウィンストン・グッドフェローがきめ細かい取材をもとに書き上げた最新のデイトナ・コブラ・ストーリーである。

シェルビー・コブラ誕生前夜
ここにご紹介するシェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ"CSX2287"は、2014年暮れのインターナショナル・ヒストリック・モータリング・アワードにおいて見事カー・オブ・ザ・イヤーを勝ち取った車である。CSX2287の成功物語は1950年代に始まる。まずは、キャロル・シェルビーにきっかけを語ってもらおう。「若い頃はいつでもこう思ったものさ。いつかは自分が作った車を運転してやるって。そう思ったのはコーリン・チャプマンやエリック・ブロードレイがはじめたバックヤード・ビルダーがとても魅力的に思えたからなんだ。自分の車を作るのに巨額な資金は必ずしも必要ないってことだね」

キャロルは1959年のル・マンでアストンマーティンを勝利に導いたあとテキサスに戻ると、そこはスポーツカーやレーシングカーを作るのに適していないことを実感する。「すぐさまカリフォルニアに移り住んだよ。そこはホットロッドが盛んで、ランス・リヴェントロウがスクラブを作りはじめていたね」

翌年、キャロル・シェルビーはサンタ・フェ・スプリングスにセットアップショップを開いた。知り合いのディーン・ムーンの工場の一角を借りてのことだ。次にシェルビーはリバーサイド・レースウェイに高性能車のためのドライビングスクールを開校し、グッドイヤー・タイヤのディストリビューターにもなった。

1961年『スポーツカー・グラフィック』誌のコンサルタントになった彼は、そこで2つのプレスリリースを目にした。ひとつはフォードがまったく新しい小型のV8エンジンを作っていること、もうひとつはブリストルがACエースのエンジン供給をやめるという内容のものだった。キャロルをよく知る者の話によれば、彼はそれを見るやただちにフォードとACを訪ね、両社から軽量で高性能なスポーツカーを作るための素材提供の約束を取り付けた。

1962年の2月、最初のコブラ(シャシーナンバーCSX2000)がディーン・ムーンのショップにやってきた。そこには260cu.in.(約4260cc)のV8エンジンと4段ギアボックスが積まれ、裸のアルミニウム製シャシーにACのロゴはもうなかった。


シャシーに貼られたプレートはすべてシェルビー製であることを謳っているが、ペダルを見るとこの車のルーツが英国にあることがわかる

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編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation: Hidehiko OZAWA Words: Winston Goodfellow 

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