なぜ「フォードGT40」は伝説のレーシングカーと呼ばれるのか?その秘密を探る

Photography:John S Allen,Ford,LAT



JWAEとガルフ
米国フォードがスポーツカーレーシングから手を引いた後、GT40のレース活動はジョン・ワイヤが率いる新会社ジョン・ワイヤ・オートモーティブ・エンジニアリング(JWAE)が、ガルフ石油の後援の下に担当することになった。彼らは1968年シーズンのほとんどを2台体制で戦ったが、この写真に写る雨のスパ-フランコルシャンには3台目を持ち込んだ。それは1965年ル・マンを走った古いレースカーをリビルドしたものだったが、ポール・ホーキンスとデイヴィド・ホブズによって望外の4位に入賞した。この車は、この後は使用されず、代わりにJWAEは新型の軽量仕様をル・マン用に製作した。最終的にJWAEは通算45ポイント(ポルシェは42ポイント)を得て僅差でチャンピオンシップを獲得した。




1968年ル・マン・ウィナー
1968年以前、実はスモールブロックエンジンのGT40は1台もル・マンを走り切ったことがなかった。世界一タフな耐久レースに挑戦するチームにとっては聞きたくない事実である。JWAEはこの年のル・マンに3台体制で臨んだが、スタート早々ミュルザンヌ・コーナーの土手に乗り上げて1台がリタイア、深夜にはもう1台がエンジンブローで姿を消し、たった一台がポルシェ908の大軍団に立ち向かった。徐々に順位を上げたペドロ・ロドリゲスとルシアン・ビアンキが最後には栄光のシャンパンを分かち合い、ブルーとオレンジのガルフカラーは世界中に知られることになった。




1969年ル・マン・ウィナー
誰にとっても実に予想外の勝利だった。1969年ル・マンでは、GT40は最新型のライバルたちに、とりわけポルシェの新兵器である917に対して明らかに時代遅れであり、JWAEの2台のガルフカラーGT40には勝つチャンスはないと見られていたからだ。しかしポルシェ自慢の艦隊はことごとく沈み、前年のウィニングカーでもあるイクス/オリバー組のGT40(シャシーナンバー:1075)が、一台だけ生き残った908と最後の最後まで接戦を繰り広げ、最後にはわずか100mほどの差でポルシェを振り切った。4年連続となったこの勝利によって、GT40は最も偉大なスポーツレーシングカーという名を不動のものとしたのである。




The P69
1969年のレギュレーション改訂によって、ウィンドスクリーンやスペアタイヤを省略したプロトタイプも認められることになった。そこでフォードは埃をかぶったままになっていたP68(F3Lから名前が変更された)を再び引っ張り出して設計し直すことを決定、レン・ベイリーに要請した。その結果生まれたのがダウンフォースを得るための巨大なウィング(この写真には写っていない)を持つP69である。アラン・マンによれば「豚のように走る」ものだったらしく、BOAC500の予選に一度出走しただけで、それ以後人々の前に姿を見せることはなかった。


編集翻訳:高平 高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:John S Allen

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