ハントとラウダ|映画"ラッシュ"公開で人気が再燃した英国のF1ヒーロー

ジェームス・ハントとニキ・ラウダ



ラウダにはトラブルの匂いが

イギリスGPの直前には、ちょっとした事件があった。当時、イギリスでもっとも人気のあったDJであるノエル・エドモンズをコ・ドライバーに迎えたハントは、ボクスホールのラリーカーを駆ってツアー・オブ・ブリテンというイベントに参加したのだが、警官に見守られながら走行していた彼は競技の開始早々に立木に突っ込み、エドモンズと仲違いしてしまったのである。どちらかといえばプロモーション目当てで、目的が不明瞭だったとはいえ、ハントはこのとき大笑いをしただけで、突然のリタイアを悲しむ素振りも見せなかったという。

もっとも、フェラーリのクレイ・レガツォーニとラウダがパドックヒル・ベンドのクリッピングポイント付近で絡んだのを見たとき、ハントはもう少し違った感情を抱いたに違いない。

イギリスに到着したラウダは、自分の体調が万全で、心身ともにリフレッシュされているのを自覚しており、新型マシンに乗れることを楽しみにしていた。しかも、イギリスでは自分が悪役を演じなければならないことも承知していて、それを大いに喜んでいた。ラウダはいつでも心の準備が整っている男だった。そしてルカ・ディ・モンテゼーモロは「フェラーリにこれほど深い信頼を寄せ、強い自信を抱く男はいままでいなかった」と満足深げに語っていた。そこには、なにかしらトラブルの匂いが漂っているかのようだった。

ラウダは予選が終わる20分も前にマシンをピットに停めると、ライバルたちが慌てふためくのを楽しんでいたが、それでもハントに100分の6秒差をつけてポールポジションを獲得する。イギリス人のヒーローはこの結果を気にも留めていない様子で、遅いクルマに引っかかったと自らの敗因を説明していた。ポールシッターとしての特権を与えられたラウダは、コースの左側、つまりアウト側グリッドからのスタートを選んだ。坂の頂上に位置するこの場所は、レーシングライン上にあって路面にラバーがのっている。いっぽう、サーキットに詰めかけた7万7000人の大観衆は、イン側からのスタートでもハントが素晴らしいダッシュを決めてくれると期待していた。しかし、実際に彼よりも素早く飛び出したのはレガツォーニで、2列目グリッドからのスタートながらまたたく間にハントを追い越していた。もっとも、ハントはレガツォーニのことを「レース序盤は不安定で信頼の置けないドライバー」と評価していた。そしてその直後、レガツォーニはラウダに突っ込んだのである。

2台のフェラーリがクラッシュするのを見たハントは苦笑いを浮かべたはずだが、それは、後方から押し出された自分もこの混乱に巻き込まれるまでのわずかな間だけだった。ラウダの右後輪がハーフスピンしたレガツォーニのホイールと絡み、この勢いでマクラーレンは宙に舞った。跳躍の軌跡は目が覚めるほど美しいものだったが、着地は失敗に終わる。その衝撃で左フロントのロッカーアームとタイロッドがひどく折れ曲がってしまったのだ。

何か"赤いもの"がハントの視界に入った。レッドフラッグである。これでレースは中断。ここでハントは、これまでサーキットという場所で学んだわずかばかりの知識をもとに、痛手を負ったマシンでコースを1周するのではなく、後方の入り口からパドックに入るルートを選んだ。

それから50分が経過しても、サーキットは喧噪に包まれたままだった。一度中断となったレースを一からやり直すべきか、それともシンプルにリスタートを行なうべきか。前年1975年にシルバーストーンで開催されたイギリスGPは雨のために赤旗中断となり、その前のラップの通過順をもってして最終結果とした。フェンスに突っ込んだ4台のマシンにもポイントが与えられたのは、このためだ。この前例にならうと、1976年のイギリスGPはまだスタートさえ切っていないことになる。

論争のタネはほかにもあった。もしも本来のレースカーが修理不能な状況に陥っていた場合、ドライバーはチームのスペアカーを駆ってレースに臨むことができるのだろうか?赤旗が提示されたとき、ハントのマシンはまだ走り続けていたのか?赤旗が提示されたラップを 最後まで走り終えていなければ、修理したマシンでも再スタートすることは認められないのではないのか?

マクラーレンは、万一に備えてスペアカーをフロントロウにポンと置くと、論の立つテディ・メイヤーと腕っぷしの強いアリスター・カルドウェルを論争の最中に送り込み、こちらも万一に備えて、メカニックたちがハントのマシンを修復する時間を稼ぎ出そうとしていた。

フェラーリのダニエル・オーデットは、シャツのボタンをヘソの近くまで外し、大きくてスポーティなデザインのサングラスをかけ、ごつい腕時計を手首に巻くという出で立ちで、いかにもイタリア人らしい大きな身振り手振りで何事かを主張していた。これではイギリスの観客に気に入られるはずがない。いっぽうのハントも派手なジェスチャーを見せていたが、そのファッションはイギリス人にも受け入れられるものだった。そしてオープニングラップで大きなリードを築いたラウダは、行儀よく腰掛けているだけだった。

落ち着かない様子の観客たちは、スペアカーによる出走が認められないのでハントはリタイアになると聞くと、にわかに激高し始めた。警察官たちは、このままでは暴動になりかねないと心配していた。場内からはシュプレヒコールが上がり、不満を表すゆっくりとした手拍子が響き渡り、カップや缶がコース内に投げ込まれた。観客の感情に配慮して、思いきった手を打たない限り、このままでは何が起きるかわからない。そんな不安がサーキット全体を覆っていた。

そうこうしているうちに、修復なったマクラーレンにホイールが取り付けられ、グリッド上に並べられた(レガツォーニとリジェに乗るジャック・ラフィーはスペアカーで出走したため失格に処される)。イギリス出身の"ジェットファイター"は、赤いマシンに乗るドイツ人に一撃を与えられるのか?ケント州の青い空の下、ハントとラウダの攻防が始まろうとしていた。そしてそれは本物の戦いとなるはずだった。

2回目のスタートで混乱は起きず、ほどなく、ひとつのバトルが観客たちの目を釘付けにする。先頭を走るラウダをハントが激しく追い立てていたのだ。このときマクラーレンは左コーナーで強いアンダーステアを示していた。ブランズハッチでは左コーナーより右コーナーのほうが多いため、チームは左右に外径の異なるタイヤを装着するスタッガーという手法を採り入れ、右コーナーにおけるハンドリングを改善していたのだ。やがて燃料が減ってくると、ハントは左コーナーにマシンを放り投げるような動きを見せてオーバーステアを誘発した。ふたりの間隔は、徐々に縮まりつつあった。

76周のレースの45周目、ドルイド・ヘアピンに進入する際に、ハントは半ば目を閉じるような思いでブレーキを遅らせると、ラウダを抜き去った。観客たちの鬱積された感情が一気に解放されたこの瞬間、割れんばかりの歓声が沸き起こったという。後にハントは「エンジン音よりうるさいくらいの大声だった」と表現したが、彼を疑う者は誰ひとりいなかった。

その後、ラウダが何の反撃も仕掛けてこなかったことで、ハントは落胆を味わう。血の気の多いイギリス人ファンを大騒ぎさせたくて、ハントはうずうずしていたのだ。しかし、ラウダは2位でフィニッシュすることだけを冷静に考えていた。表彰台に上ったふたりは、笑顔を振りまき、ジョークを言い合い、握手を交わしたが、ラウダが「ギアチェンジに問題が起きてほとんどの周回はまともに走れなかった」というと、ハントは「トラブルが起きたのは僕が抜かした後だ」とやり返したのである(ふたりのドライバーは予選とほぼ同じタイムで走行しており、実際のところラウダは41周目にこの日のファステストラップを記録した)。


1976年のシーズン後半、ハント、ラウダ、バーニー・エクレストン、ロニー・ピーターソンの4人が一本の傘を分け合っている

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