シェルビー・コブラ427|邪悪な走りと語り継がれるレースカーの意外な本性

シェルビー・コブラ427



コブラの289と427がまったく違う車であることは覚えておいたほうがいい。違いはエンジンだけに留まらない。427のシャシーは、先代よりがっしりしたチューブで形成され、ビッグエンジンに合わせて幅も広い。最も重要な違いはリアサスペンションだ。289まではACエースと同じ半楕円式だったが、427では4リンク式コイルのオーバー・ダンパーを採用。これによって、レース時の微妙な調整が可能になっている。

ただエンジンについては、実のところキャロル・シェルビーの第一希望ではなかった。シェルビーはフォード390 V8を希望していたのだが、NASCARチームが先に390を採用してしまったため、結果的に重い427を載せざるを得なかったのである。427の重量は薄壁鋳造エンジンによって抑えられたものの、新コブラのデザインは妥協を余儀なくされた。当初の設計では、289よりホイールベースを3インチ長くしていたのだが、フォードのボブ・ネグスタッドがプロトタイプの製造監督のためにACを訪れたところ、ACは既に289と同じ長さにカットしたシャシーチューブの納品を受けてしまっていたのだ。理由は、単に値段が安かったから。そのため427コブラは、289より150馬力も出力が大きく、トレッドは広くなっても、ホイールベースは289と同じ90インチというユニークなプロポーションになった。このバランスは正にコブラだ。その名の通り、刺激を受ければ即座に噛みつくのも無理はない。停止状態から9秒以下で100mphに達するが、問題は、その間まっすぐ走れるかどうかであった。

このシャシーCSX 3006は、1964年12月31日付けでシェルビー・アメリカンへの請求書が切られ、1965年1月25日にインディアナ州マンシーのウィリアム・G・フリーマンという人物から注文を請け負っている。フリーマン氏の指定でメタリックブルーにゴールドのストライプで塗装され、ロサンゼルスのハイパフォーマンス・モーターズを通して期日通り納品された。値段は、9600ドル+ハーネス代25ドル。フリーマンはこの車で数回レースに出走。その後レース契約のオファーを受けてフランスへ渡った際にもこの車を持っていったようだ。だがフランスではコブラに出番はなく、1966年春にチェッカード・フラッグが購入した。

ここから一気に、CSX3006のレースライフが活気を帯びる。なんと右ハンドルに変更され、色もウィンブルドン・ホワイトに。ボンネットとトランクだけはグロスブラックというカラーリングを施して、グッドウッドやブランズハッチ、オーストリアなどで様々なレースに参戦した。充実したそのシーズンで特に注目すべき1勝は、1966年5月8日、ブランズハッチでのイルフォード500における総合優勝だ。ドライバーは、ボブ・ボンドゥラントとデビッド・パイパー。グレアム・ワーナーによれば、アメリカも含め、FIAの国際レースで「オープンカー」のコブラが果たした唯一の総合優勝だという。

モータースポーツ史の大家でOctaneの寄稿者でもあるダグ・ナイも、その日のことをよく覚えているという。

「私は、レースの報道担当だった。週末は『MotorRacing』誌の薄給を補うためにそういう仕事をしていてね。でも前日の練習走行で悲劇があった。ニール・デンジャフィールドのコブラが、パドックでトニー・フローリーとクラッシュした。トニーは即死だった」

「あの日ブランズは、雨が容赦なく降りつけて、寒く灰色だったのを覚えている。BRSCCは、レースは6時間か500マイルのどちらか先に到達するまでと決めたが、.パイプス.とボブ・ボンドゥラントは、464マイルしか走れなかった。そのくらいひどいコンディションだったんだ。チェッカード・フラッグはコブラを2台出していた。7ℓのほかに、ロイ・パイク/クリス・アーウィンの4.7ℓだ。ピーター・サトクリフの赤いGT40とイネス・アイルランドの水色のGT40が一瞬トップに立ったが、サトクリフはオイルパイプが破裂し、イネスは、スターリングス・コーナーでうまく仕掛けようとしてラインを外し、スピンしてインフィールドに飛び出し、スタックしてしまった。ピットに戻ってきたときは、ずぶ濡れで言い訳していたよ。でも車のオーナーであるホー大佐は感心していなかったね」

「こういう長いレースは、変わった展開になるものだ。ウェットで2番手になったのは、ロジャー・エネヴァー/アレック・プール組で、なんとハードトップのMGBだった。本当に尊敬に値するよ。だがそのうちに、後れを取っていたGT40の"シューター"とデビッド・ホブスが、猛烈な勢いで順位を上げて、フィニッシュ直前にMGBから2位を奪い去ったんだ」

「大きな427コブラがドルイド・ヘアピンの木の陰から現れてくる様子をはっきりと覚えている。毎周スロットルを開けるたびに、ギザギザにコーナリングしてくるんだ。でもひとたびグリップすると、ものすごい唸りを上げてストレートで全車を置き去りにした。デビッドとボブ・ボンドゥラントには、ツイストコーナーでスピードを殺さずに走る腕があった。驚くべき走りだったよ。選手権とは関係のないミドルレースに過ぎなかったけれど、あの日は勇猛 4果敢な走りがあちこちで見られた」

ほかにもCSX3006は、オーストリアで9月に行われたスポーツカー・グランプリをはじめ、同じシーズン中にも様々なレースに出走した。ワーナーはこう語る。「グループ4は人気を失いつつあって、参加できるレースは少なかった。1966年後半のシルバーストンのマルティニ・トロフィーでは、確かデビッド・ホブスが乗ったのさ。そのレースには金属製のハードトップを用意したよ。普段はフロントガラスが空気抵抗になっていたが、ハードトップを付けたら最高速が6mphも上がったんだ!

でね、結局1966年の終わりに、427は289とを一緒に売りに出したんだ。確か2台で数千ポンドだったと思う。いい車だったが、売るのは楽じゃなかった」

この427は、受け継いだオーナーたちの手で何度かイギリス国内のレースに出たが、70年代後半に再びアメリカに渡った。ある時期にはまた左ハンドルに戻されて、2000年代初めにはメカニカルパーツの大々的なオーバーホールを受けた。その後、カナダのレジェンダリー・モーターカー社がボディ全体のレストアを行い、再度完全に1966年のレース仕様に戻した。つまり、またしても右ハンドルに変更されたのだ。もちろんボンネットの色も、「フラッグ」のトレードマークである白と黒のツートンカラーに戻った。

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