アルファロメオ・ジュリアGTA|"Alleggerita"の魅力

アルファロメオ・ジュリアGTA

贅肉を極限まで削ぎ落とし、筋肉を鍛え上げたアスリート。アルファロメオ・ジュリアGTAをあえて人にたとえれば、そう表現できるだろう。Octaneは"GTA"というストイックなアスリートと向き合った。

GTAストラダーレ

アルファロメオ・ジュリア・スプリントGTは、歴代のアルファのなかで最も成功を収めたモデルだろう。カッツェリア・ベルトーネの若きマエストロ、ジョルジェット・ジウジアーロが手掛けたジュリア・スプリントGTは、美しくバランスされたスタイリングによって見る者を魅了し、1600ccツインカムエンジンは胸が空くような走りを楽しませてくれた。

1966年には、ジュリアのバリエーションにモータースポーツ参戦を意図したGTA("A"はイタリア語で軽量を意味する"アレジェリータ")が加わった。オリジナルのスプリントGTをベースに、さらに"走りのよさ"を予感させる要素が盛り込まれていた。外観はスプリントGTと共通だが、軽量化のために高度にストリップダウンされていたのだ。贅沢なマグネシウム合金製ホイールを奢られた一方、フロントグリルの"光り物"は最小限で、機能だけに特化したミニマムなドアハンドルが異彩を放っていた。純正ボディカラーナンバーAR501のロッソアルファに塗られ(それ以外はAR013の"ビアンコスピノ"すなわちホワイトのみ)、仕上げにクアドリフォリオのデカールで締めくくった。
私たちは1台のGTAストラダーレを取材した。オーナーのリチャード・ノリスは、18歳の頃からアルファを所有し、現在はクラシック・アルファ社を経営し、世界中にアルファのパーツを供給している。こうしたリチャードのアルフィスティの血統は、彼の家系に関係がありそうだ。祖父のシド・グリーンは、1950年代後半から1960年代前半にかけて、F1チームのギルビー・エンジニアリングを所有していた人物だ。さらに叔父のキース・グリーンはギルビー・エンジニアリングが所有するクーパーやギルビーF1に乗ったグランプリドライバーで、その後、アラン・マン・レーシングやブラバム・アルファロメオF1チームをマネージメントとした人物だ。「需要の高いクラシックカー同様、GTAの価格は最近急上昇し、状態のよいレースカーでは12万ポンドはするでしょう。ロードゴーイングのGTAはストラダーレ、レース仕様がコルサといい、ストラダーレはほとんど売りに出ません。乗りやすく、最高のクラシックレーシングカーのGTAに対する需要は高く、特にほとんどがレースカーに改造されているので、この1台のようにオリジナルの状態のストラダーレを見つけるのは難しいのです。特に、右ハンドル仕様は50台しか造られず、レース用にコンバートされたGTAよりもストラダーレのままだったクルマの方が高い値が付くのです」とリチャードは話し出した。

ライトウェイト・アルファロメオの系譜

まず、ジュリア・スプリントGTAが誕生する以前のアルファロメオ"ライトウェイトモデル"の話から始めよう。

発端は1956年4月のミッレミリアにある。激しい風雨のなかで行なわれたこのレースに、カルロとドーレのレト・ディ・プリオーロ兄弟は、長兄のマッシモが5日前に買ったばかりの、真新しいアルファ・ジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェを借りて出場した。だが、彼らは豪雨のなかでクルマを激しくクラッシュさせ、マッシモの怒りを買うことになった。家庭内での騒動が収まったのち、兄弟たちは問題解決のために近所のカロッツェリア・ザガートを訪ねた。修理不能なほど酷く壊れたベルトーネ製のボディを下ろして、軽量でエアロダイナミックなボディの架装を注文するためであった。ザガートが完成させたアルミ製軽量ボディの効果は絶大で、車重はわずか750kgに仕上がり、ジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェ・ザガート(SVZ)として知られるようになった。

マッシモは自らSVZのステアリングを握って、1956年9月2日に開催されたコッパ・インターヨーロッパへ出場、見事クラス優勝を果たし、ザガートにはこれを目の当たりにしたコンペティターから約20台の注文が舞い込んだ。また、この状況を見たアルファロメオは、ベルトーネ製ボディを架装したジュリエッタ・スプリント・スペチアーレ(SS)よりもSVZの方が速いことに気付き、1960年にザガートとの間でスプリント・ザガート(SZ)の生産契約を結ぶことになった。この成功によって、軽量ボディのアルファロメオがレースチームの注目を集め始めるようになった。

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